この盆休みに歎異抄を読んだんですが、やっぱ底知れないわー親鸞聖人。
歎異抄といえば、浄土真宗の宗祖親鸞の弟子、唯円房が、
親鸞の教えを元に、親鸞亡き後本質を見失い、てんでバラバラの教えを説く
異端を歎いて書かれた本で。
親鸞聖人はとんでもないマイナス思考の「自分を含め人間なんてクズやん」が持論の人で、
しかし阿弥陀如来は、その人間のクズさ加減を承知の上で、
それを悲しみ、慈悲の心を持って「お前ら皆救ってあげようじゃないか」と
言ってくれている、と。
そこに、感動して救いを見出したんですって。
天才親鸞聖人は性悪説のマイナス人間だったのかー。。。
親鸞聖人や、そのお師匠である法然聖人の浄土系仏教の教えの核として、
「本願他力の念仏」がある訳ですが、
これは現代で言う「他力本願」の元になっている教えで、
人間は、自分で何でも分かってる気になっているけど、
本当はどーしようもなく無力であると。
だから自分で頑張って悟りを開いて、極楽浄土に行こうとするなんて
無理なんだ、と。
逆に言うと、
必死で行を重ねたり、勉強したり、徳をつんだ偉い人しか
浄土に往生させないほど、阿弥陀如来は了見が狭いはずないでしょ?と。
そうじゃなく、”自力”で往生する、という心を捨てて、
「お任せします」という気持で「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで
救ってくれるんですよ、というもので。
むしろ、その他力の念仏は、自分から出そうとしてるもんではなく、
阿弥陀如来からの働きかけから発せられたものなんである、と。
スケールがでか過ぎて、なかなか分からないんですが、
それよりも、必ず出てくる疑問が
『じゃ、僕らの努力は無駄なんか?』ということだと思うんですよね。
自分で頑張らずに、ただ運命に流されながら、
「でも結局救われるんだろ〜」と思っておけばいいのか?と。
これを考えていたら、答え、っていうのとはちょっと違うかもしれませんが、
以前に考えていた自分の考えの中に、この「本願他力」に
通じるようなモノがあることに気がついたんでありまして。
それは、よくある「果たして自分は結婚して正解だったのか、否か」的な疑問を持つこと自体への、
自分なりのある想い、で。
こんな疑問をいだく前提には、
「結婚が成立するための条件は、当人達の決定権・・・あとは両家の想いとか、
その辺が、ほぼ全て」っていうのがあるんじゃないか、と。
要は、当人や、その家族の気持次第で結婚は成立する、
っていうのが前提にあるんじゃないか、と。
でも、結婚に至るまでの条件なんて、
なんで、そのタイミングに2人は出会ったのか?に始まり、
じゃあなんで、2人が出会う前に、もっとバッチリの相手にお互い出会わなかったのか?
とか、
下手したら、その大学にたまたま行ったから、だとか、
そのサークルに入ったから、とか、
もっといえば、ある日の晩飯の献立が違ってたら、
2人は結婚してなかったかもしれないんじゃないか?と。
それは言いすぎか?w
いやいや、でも、つきつめれば、
2人の両親がなんで結婚したのか?になるだろうし、
その両親も、そのまた両親も・・・ってなれば、
無限にその結婚が成立するための
条件の数は増えていくわけで。
これはもう、結婚に限らず言えることだけど、
「今」というものは、
自分ではどうしようもない、
運命の流れの中から生み出されたものである、としか言えないんじゃないか、と。
その条件の中のたった一つの「自分の意志」だけを捉えて、
「それで良かったのか、悪かったのか?」なんていうのは、
なんつーかもう、おこがましいにも程があるような気がしてならんのです。
だから、それを受け入れて、何でも我慢しろ、
なんていう脅迫じみたことが言いたい訳では決してなく。
運命を無視して、自分でなんでも分かってる気になるのはどうなんや?
と、問うていかんのではないか、と。自分を含めて。
そういった考えから、本願他力の教えを見直してみると、
この「本願他力の念仏」は、
運命の中にいる人間の無力さを知った上で、
その運命とどう向き合って生きていくか?
その方が本質的なんじゃないのか?
それが本筋ではないとは思うけど、
そう問われているような気がちょっとしたんです。
で、具体的にどうしたらいいのかは、まあ、まあ、あんまり分からないすけど。w
でも、そういうベクトルを心のどっかに持っておくことは
大事なんじゃないか、と。
あと、歎異抄が伝えたかったのは、
当時の、女人禁制の山にこもって修行を積んで、
仏教の教義を勉強して、
頑張って仏教やってる俺らみたいな偉い坊さんだけが救われるんだ、
的な人たちに、
「俺や、お前らのようなただの人間の善悪とかの物差しで、分かった風に測ってんなよ」という、
むしろ悪人の方こそ阿弥陀如来は慈悲の心で救ってくれるんだ、
というスケールのでかさであり、
その根底には、
闇があるからこそ、光が存在できるんじゃないか、と。
逆に善という価値観が悪を対照的に生み出してんだぞ、
というオールオッケーの懐の広さを垣間見ずにはいられんです。
しかし、仏教はやっぱり深い。
深いのかどうなのか、分からんぐらい深い。
思い出すに、歴史の教科書には、
「南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽浄土にいける、ということから
浄土宗はひろく一般の人たちに受け入れられ広まった」
ぐらいしか書いてないって、そりゃアカンて。1パーも伝わってない、って。
以前から学校教育に仏教の時間を設けるべきや、と思ってる僕としては、
もっと知るべきことを言ってると思うんですけどねー。
とりあえずシャムシェードは、再結成して、
♪100分のイチ〜も伝わ〜らない〜
って歌を出せ。解散したのかどうかも知らんけど。
はー、長かったけど、考えを忘れないうちに
書き留めたから落ち着いた。
