ウサギの使者 (1/3)
コンコンと、窓を叩く音が聞こえた。
窓に鍵は掛かっていないし、音の主もそのことは知っているはずだ。しかし向こうから窓を開けることはない。私は駆け出したい気持ちを抑えながらゆっくりと窓を開けると、親しみを込めて言葉を投げ掛けた。
「やあ、ハム君。今年も来てくれたんだね」
窓の外に現れたのは、一匹のウサギ・・・正確には"ウサギのぬいぐるみ"である。名をハム君、と言う。彼は上半身を燕尾服に身を包み、本物よりもいささか誇張された長い耳をピンと立てている。首元には白い蝶タイ、燕尾服のテールが彼自身の短い尻尾を覆っている。残念ながら体型的にスラックスは履けないようだが、立派な正装だ。
「こんばんは、今年もお会いできて嬉しいです」
ハム君はペコリと頭を下げると、窓のすぐ下にある机に降り立った。代わりに開け放った窓から覗くのは、中秋の名月と呼ぶに相応しい、あかあかとした丸い月。この時期、ハム君の来訪を待つのが数年来の私の楽しみだ。
◆
これから私は、他人にはとても信じられぬだろう話をする。
ハム君は、私が昔、娘に買い与えたウサギのぬいぐるみである。娘はそのぬいぐるみに"ハム"という名前を付けた。これは娘が当時好きだったウサギとハムスターが、子供らしい強引さで一緒になってしまったものらしい(食べ物のハムでなかったことに私は内心安堵した)。
それから10年は経っただろうか。娘はそのハム君を今でも大事にしているようだ。それは嬉しい。しかし私は、本来その情報を得られぬはずの身である・・・娘とは、妻との離婚を境にもう6年以上会っていないからだ。これからも会うことはないだろう。自分は家庭の父を上手に出来なかった男である。
ハム君が私の所へやってきたのは、4年前のことだった。同じように窓を叩いて、娘からの使いだと名乗った。ぬいぐるみが動いて喋るという非現実を前に、私は自分の正気よりも先にどんな仕掛けなのかを疑った。きっと妻は私のこんな理屈っぽい頑迷さに耐えられなかったのだろう。
さんざん引っ張ったり口の中を見ようとしたり、思えばハム君には実に悪いことをしたが、とにかく私はハム君になんら文明的な仕組みを見つけることができなかった。彼はどこまでも繊維だったのである。
ここに至って私は、自分でも不思議なほど理性をあっさり放棄することができた。娘の名前はそれに値するものだったからだ。いっそ夢でも相手が悪魔でも、娘の様子が知れるなら狂人で構わぬ。
それ以来、ハム君は年に一度、九月の満月の夜に私の所へ来訪するようになった。
◆
ハム君は紳士である。声音は少年のようだが、口調は穏やかで、常に礼節を欠かさない。その落ち着いた態度が、常識に照らせば異常極まりない月夜においてなお、私を正気の縁に止めてくれる。
「今年の月は一段と鮮やかですね、夜道も月明かりではっきりと見えましたよ」
ハム君はそう言って赤い目を月に向けた。なんでも彼は月の光を浴び続けていないと動けないらしい。だから窓は開けたままにしておく。窓下の机はこの日のためにすっかり片付けておいて、ハム君は机の上に、私は椅子に座って話をする。そうすると目線が合って話しやすい。
「それでハム君、学校は・・・」
私は腰を落ち着けるや否や、身を乗り出してハム君に問うた。一年間、ずっとこの事ばかりを気にして暮らしてきたのだ。
「まあまあ、落ち着いて。これが答えですよ」
ハム君はそう言うと、丸い手で燕尾服から切手くらいの紙を取り出した。そして空いた手でそれをポンと叩く。すると、小さな紙は柔らかい光を放って瞬く間に写真サイズへと膨らんでいった。それを受け取った私は、歓喜と安堵で言葉にならない声を上げてしまう。
写真には、高校の制服に身を包んだ娘が写っていた。入学式で撮影したものだろう。その笑顔には、真新しい制服にも負けない、生まれ変わったような輝きが満ちている。写真を握った手から、何かが私の体に染み入ってくるようだった。
「ご主人様、よく頑張りました。第一志望に無事合格です」
ハム君の言う"ご主人様"は娘のことだ。娘とウサギの執事の組み合わせは想像するにも微笑ましい。大きな幸福を届けてくれた小さな使者に、私は改めて礼を言った。