ウサギの使者 (2/3)
中秋の名月とは旧暦の8月15日のことであり、必ずしも満月の夜を意味しない。彼にとっては暦よりも満月であることの方が重要なので、実際の来訪はそこに一番近い満月の夜だ。幸い、今年は暦と月がぴたりと息を合わせている。
窓から舞い込んだ月の光は、ハム君や、私や、部屋の何かの触れるとたちまち弾けて、ゆっくりと辺りを色付けていく。ハム君には、耳を澄ますと光が弾ける瞬間に鈴のような音が微かに聞こえるという。この夜、世界には満天とこの部屋だけがあるのかもしれない。
いつもよりとても近くに見える月を眺めながら、私とハム君は紅茶を片手に会話を弾ませる。最初は古来に習って酒を出そうとしたのだが、未成年だからという理由で断られた。ぬいぐるみにも成人の区別があるものなのか分からないが、私もこの貴重な夜に酔って記憶を薄くしたくはない。
一方、食べ物の方は、団子は彼の手では食べにくいためクッキーなどの焼き菓子類を用意する。おかげですっかり西洋風の店開きになってしまうが、元々月見は団子と決まったものでもないし、これもまた一興だろう。
ハム君は紅茶を飲みながら、この一年の娘の様子を教えてくれた。最後の中学生活。決して安全圏とは言えない進学校へのチャレンジ。緊張の中での年明け。雪の残る寒い日の受験・・・。彼は時々身振り手振りを交えて、まるで自分の体験のように、嬉々としてその日々を語ってくれた。
「ボードに自分の名前を見つけたときは、それはもう飛び上がる勢いで―――」
「おっと」
ふらりと傾いたハム君の体を慌てて支える。少々熱が入りすぎたようだ。
「や、これは失敬」
彼は申し訳なさそうにモゾモゾと両の耳を揃えた。誇張されて長めに作られたそれは、きっと彼の体にはバランスが悪いのだろう。
「高校の授業にはついていけてるのかい?」
頑張って合格したはいいがその後が続かないのでは意味がない。私は少し心配になった。ハム君はピクリと鼻を動かすと、何だか済まなそうな顔をした。
「実は、部活やら遊びやらに熱中しすぎてしばらく勉強が疎かに・・・最初のテストが思ったより悪くて落ち込んでいましたよ」
熱中すると他が見えなくなる性分。昔の自分のことを言われているようでこっちまで済まない気分になる。
「でも、それからは気持ちを切り替えてしっかりやってますよ。心配ないでしょう」
ハム君は今度は控えめに胸を張って請け負った。私は娘の執事の判断を信用することにした。
◆
そうして彼の話は進んでいく。私とは遠いところで過ぎ去っていく、眩いばかりの思春期の日々。夏休みが終わり、新学期が始まって、それはついに今日という満月の夜へと合流した。
ハム君はそこで一度言葉を止めると、先程までとは違う声音になった。
「ところで・・・ご主人様は今年で15歳になりました。これが何を意味するかはお分かりですね?」
私はその言葉で、ずっと心の奥に仕舞い込んできた "結末" と、ついに向かい合わなくてはならなくなった。4年前に既に聞かされていたこと。彼は赤い目で私をしっかりと見つめながら、諭すように静かに告げる。
「私がこの役を勤められるのは、ご主人様が15歳の年まで。それが月との約束なのです」
その宣告は、この世界から急速に体温を奪っていった。
私の気持ちは―――私を追い越して逆らおうとする。この結末に否を唱えようとする。しかし父親ですらいられなかった私に、今更何を言う資格があるのか。実際、私にはハム君が来訪する理由すら知らされていないのだ。
彼はいつも報告者であり、メッセンジャーではなかった・・・いや、言い訳はすまい。私が臆病だっただけなのだ。もし拒絶を引き出してしまったらと思うと、とても言葉を託すことはできなかったのである。それは私にとって命がけの跳躍に等しい。
だから、違うことを言った。
「君は・・・どうなるんだい?」
ハム君はそれには答えなかった。少しの静寂。彼は窓の外の月を一度見上げてから、代わりに思いもかけない言葉を返した。
「ご主人様から、伝言を預かっています」