ウサギの使者 (3/3)
その瞬間、全身の血が沸騰すると同時に凍り付くような感覚に襲われた。しかし、私の意識はバラバラになりながも彼の声に追い着こうとする。
ハム君はそんな私の心境を察したように、長い沈黙を間に置いた。そして改めて私の方へ向き直ると、大切な宝物を開けるかのように、静かに、ゆっくりと音を紡いだ。
それが、私が娘の使者から聞いた最後の言葉だ。
◆
ウサギは夜を走る。何かを振り払うように、懸命に走り続けた。
ウサギは言いたかったことのひとつを伝えることができた。それを月に感謝した。しかしもうひとつのこと―――それはずっと隠していたこと―――を口にすることはできなかった。それを思うと月が恨めしくもあった。だがそれは、決して違えることができない月との約束だ。
《あなたは15歳まで年に1度、"ウサギの使者として" 父と会うことができる》
父はまだ自分のことを愛していた。それは本当に嬉しいことだった。しかし同時に、深い悔恨に囚われていることも痛いほど分かった。今を生きずに、過去を生きているような父。月の奇跡では、一夜の安らぎを共にすることはできても、苦しさを救うことまではできない。
いつの間にか心に染みついていた、捨てられたという惨めな気持ちはとうに溶けてしまった。しかし、ウサギである限り父との距離は変わらない。今思えば、4年間、自分は目の前のことばかり見ていて、為すべきことを何も考えていなかったのだ。ようやくそれに気づいたときは、もう最後の年になっていた。
だから今日、ウサギは奇跡の終わりを、そして再度の別離を告げる言葉を、人生で一番やさしい声で言うことができた。
『大人になったら会いに行きます。だからもうしばらく待っていてください』
父は何度も頷きながら、分かった、待っているよ、と繰り返した。泣いていた。それを見て自分も泣きたくなった。一緒に泣いて「お父さん」と言いたかった。今にも道を戻ってそう叫びたい。
しかし、月の魔法はもう終わりを迎えようとしているのだ。
◆
私は部屋を見渡した。そこには夢の残滓が漂っている。4年前にウサギの使者が尋ねてきたことを、そして今日最後の別れを告げたことを、この部屋はまだ記憶している。
私は今まで、何をしていたのだろうか。突然雑踏の真ん中で目覚めた人のように、途切れた時間をなぞろうとする。しかし、そこには空虚な意味が横たわっているばかりだ。
窓の外を見上げると、宝石を散らした夜空の真ん中で、満月が変わらぬ微笑を湛えている。九月の澄んだ空気は、月の輪郭をはっきりと伝えてくれた。私はその美しい円に目を細めて、この欠けることのない満月のように、娘の歩む道が幸せで一杯に満たされればいいと思った。そしていつか、その道が再び自分と交わることを素直に祈ることができた。
6年―――しかしまだ、遅くはない。私は、自分の体さえ新しく造り替えられた気がする。
◆
ふいに、その姿が淡い光に包まれた。ウサギはそれを合図に力を込めて飛び上がると、まるで見えない階段を登るように宙へ舞い上がった。鈴の音が大きくなる。今まで底に沈んでいた音がはっきりと聞こえ出した。高い音、低い音、長い音、短い音・・・まるで世界の全ての音を集めたような、それでいてひとつも混濁することなく、見事な調和を描く音。それはきっと、音という名の別のものなのだろう。
どこまでも続く闇の中に、ひとつの道筋がはっきりと見えた。その先には月が、そして「出口」がある。そこへ向けて一直線に駆けていく。それは地上から見たら、流れ星が天を遡っていくように見えただろう。そう、いつしかウサギは光の玉そのものになっていたのだ。
次第にウサギは天も地も朧になって、どちらが星の光なのか、街の明かりなのかも判然としなくなってきた。嬉しいことも、悲しいことも淡く消え、そして最後には自分が誰なのかも分からなくなった。それでもなお、ウサギは月を目指した。あそこには全ての人が幸せになる光があるのだと、それだけを強く思った。
コメント (1)
人は誰もが自分だけの悲しみや物語を持っていて、それは奥底に愛があるからこそ、悲しくて切なくて心に沁みるんでしょうね。
いつかこの身体が寿命を迎えた後、そんな物語もなつかしいような、恋しいようなそんな記憶の一部になるんでしょうね。
そう思うと、どんな体験も深くて愛しい気がします。
投稿者: くーこ | 日時: 2010年10月23日 16:26